吾が輩は、犬である・・・。
名前は、まだ、ない。のではなくて、よくわからない。

俺の今のご主人は、ここの屋敷に住む男だ。もう一人、年を取った男と二人で住んでいるようだが、主に飯を運んできてくれるのは、この、三好、と呼ばれている男だ。
年はよくわからない。俺の前のご主人よりはずっと若いようだが。

ご主人は俺のことを、犬、と呼ぶ。
それが名前じゃないことくらいわかっている。
もう、この男に飼われてから一ヶ月は経つのだから、そろそろ名前をつけてくれてもいいと思う。
「ほら、犬、これ食べたいのかい?」
縁側で胡坐をかいて座って、干物を齧っていたご主人を見ていたら、ひとつ分けてくれる。干物が欲しかったわけではないが、ありがたく頂く。
魚を味わいながら、ご主人は猫みたいだなぁと思った。
しかし、不思議と嫌悪は感じない。
ご主人が、命の恩人だからかもしれないが・・・。

俺の元の飼い主は年老いた爺さんで、家の周りに小さな畑をいくつか持っていた。
俺は爺さんの家から一番離れた畑の横の小屋で飼われていた。狐や狸や野菜泥棒から畑を護るための番犬として。
田舎だからある程度自由に動けるようになっていたが、柵から出るときは太い荒縄で首輪をされて連れて行かれた。
爺さんは俺のことを番犬以上には思っていなかった。
俺を呼ぶときも、タロウだの、ポチだの、シロだの、バラバラで、どれが本当の名前か俺には分からなかった。

ある日、家の近くの畑で爺さんが農作業中に死んだ。
俺は、道端の杭に荒縄で繋がれたまま、途方に暮れた。
吠えても吠えても、田舎道には誰も通らなかった。
仕方がないから荒縄を噛み千切ろうともがいたが、荒縄は頑丈で、ようやく噛み千切った時には、ほとんど体力は残っていなかった。
俺はふらふらした足取りで、農道を歩いて、歩いて、歩いて、どこかの辻に出たところで、もう一歩も歩けなくなって倒れこんだ。
腹が減って、喉が渇いて、俺はきっと死ぬんだと思ったが、そこへ、このご主人が通りかかったのだ。
俺の首に巻きついている荒縄を見て、飼い犬だったことを察したご主人は、近所の人に聞いて調べてくれたのか、爺さんは、数日後無事に埋葬された。
それでも俺の名前は分からなかった。
そりゃそうだ。爺さんも名前を覚えていなかったんだから。

「犬、お前の名前は何ていうんだろうな・・・」
ご主人が呟くように言った。
すると、ご主人の後ろから、この家のもう一人の男が姿を現して言った。
「貴様がつけてやればいいだろう」
低く響く声。この声を聞くと俺はいつも緊張する。しかし、ご主人は、先ほどよりもずっと幸せそうな顔になった。
「結城さん」
「もう、一ヶ月にもなるのに、まだつけてやらないのか?」
「・・・この犬はそれを望んでいるのか、と、余計なことを考えてしまうんです」
遠くを見つめて、ご主人は言った。
「三好、貴様は、望まない名だったか?」
「まさか。でも、」
「でも?名前ごときで貴様は何も変わらない」
「・・・・・・」
「新しい名は新しい価値を与えるだけだ。この犬のそれまでの価値を捨ててしまうわけではない」
難しい顔をしてご主人は黙ってしまった。

「犬、お前は名前が欲しい?」
ご主人は優しい声で言った。
名前なんてなんだっていい。でも、ご主人に俺を呼んで欲しいと思った。
だから、俺は尻尾を千切れそうなほど振った。
「ははっ。そうか、じゃあ、お前の名前は辻だ」
「犬らしくないな」
「ええ、彼は仲間ですから。辻、気に入った?」

俺の名前は、辻。どんな犬もつけてもらったことがないだろう。人間みたいな名前だ。ご主人が、辻、と呼んでくれると、不思議と誇らしく思えて、俺は思いきり「ワンッ!」と返事をした。
結城さんと呼ばれていた男は、俺を見て、フッと笑うと、
「犬に嫉妬するのもバカな話だな」
と呟いて、障子の向こうに消えてしまった。
どういう意味だろう?

俺がご主人を見上げると、頬を染めて嬉しそうに笑うご主人がいた。
「結城さん、待ってください」
ご主人は俺をひとなでして、立ち上がると、軽やかに部屋へ入っていってしまった。

もう少し、辻と呼んでもらいたかった。
だが、あんな嬉しそうなご主人を見られただけで、満足だ。





























































inserted by FC2 system