「また君に会えるなんて思わなかったよ」
加納昭雄は言った。

シュプレー河の巨大な鉄骨の赤い橋の上だ。強い風が吹いている。

「私はだらしなくも途中で眠ってしまったようだし、目が覚めたとき君の姿はなかった。てっきり怒って帰ったのだとばかり思っていた」
加納が眠ったのは、真木が唇に含ませた眠り薬のせいであった。

「君、ロケットの中を見たろう?」
「いいえ」
「誤魔化さなくていいよ。オルゴール曲が途中になっていたからすぐわかった」
ああそうか。
そのためにオルゴールがついているのか。
迂闊だった。真木は心の中で舌打ちをした。

「あれは妹なんだ。歳の離れた」
「妹さんでしたか」
真木の声には抑揚が無かった。妹が居るという報告は受けていない。

「恋人の写真でも入ってると思ったんだろう?私は少し嬉しかった」
「僕は嫉妬深くて・・・貴方のことも、何も知らないし」
言い訳をして、真木は俯いた。
反省しているように見えるはずだ。

「これから知り合えばいい、と言いたい所だが、私には余り時間が無い」

「残念だよ。もっと早く君と出会えていたら・・・」
加納は帽子を取って、真木に手渡すと、いきなり身を翻して、赤い橋の欄干から身を投げた。

欄干から身を乗り出して、真木は叫んだ。
真木の視界は、スローモーションのようにゆっくりと河の中へと落ちてゆく、一人の男を捕らえた。
派手な水しぶきがあがり、しばらくして水音がした。やがて何も見えなくなった。


ベルリン動物園。数日後。

「災難だったな」
田崎は言った。
「でも還ってよかったじゃないか。これで奴がスパイであることを証明できたようなものだ。勝手に追い詰められたのだろう」
「ほざけ。僕はあの場にいたんだ。誰かが見ていたかもしれない」

死は最悪の選択だ。それは周囲の余計な詮索を招く。ゲシュタポも動くだろう。

「調べてみたが、オペラに招待された客は全員ナチスの関係者だった。あの場に居たこと自体が、スパイの証明なんだ」
真木が言った。
「そしてあのロケットは、なんとヒトラーから貰ったものだったんだ。常にワーグナーを身につけることで、ナチスへの忠誠を誓わされていたんだろう」

「あの少女は、奴の母親だったよ」
田崎が言った。
「火事があって、母親の形見はあの写真しか残されていなかったらしい。母親は火事で死んだんだ。妹だと偽ったのは、恥ずかしかったからだろう」
「なぜ僕の目の前で飛び降りたんだ」

「さあ、ひとりで死ぬのが寂しかったのかもしれない」

真木は、檻の中の白熊を見つめた。
「貴様、<真っ黒な孤独>について考えることはあるか?」

尋ねるというよりも寧ろ独り言のようだった。
「僕達はこの白熊と変わらないよ。檻に閉じ込められて、ぐるぐると同じところを歩き回っている。
奴もその孤独に耐えかねて、きっと」

「結城さんに言われたことを気にしているのか?<諸君の未来には真っ黒な孤独しかない>といった、あの言葉を。確かに俺たちはそれを毎日砂を噛むように味わっている。でも俺はね」
田崎は一旦言葉を切り、また続けた。

「<真っ黒な孤独>に耐えるには、自分の中に光を作り出すことが必要なんじゃないかって、そう思うんだよ」

田崎は握った右手を開いて見せた。
「そうすれば、その光が、誰かを照らすこともある」

手のひらの中には紅蓮の炎が美しく燃えていた。










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