「猫?」
「甘えてくるかと思えば、手を伸ばすと逃げる」

「誰がいつ貴様に甘えた?」
真木は珈琲をかき回す手を止めた。
揺れる琥珀色の液体に、俯き加減の自分の顔が映る。

「ほんとはいけないんだけどね、俺は近頃の君がスパイらしくなくてほっとしてるんだ」
田崎が意外な言葉を口にした。
「どういう意味だ」
「以前の君なら任務の為ならなんでもしただろう」

真木はテーブルの上の男の写真をもう一度見つめた。

「まあいいさ。ベルリンに来て君は少し変わった。結城さんが心配するわけだ。
おっと、しゃべり過ぎたな。そろそろ時間だ」
田崎は新聞を畳んだ。立ち去る合図だ。

真木は取り残された。
結城さんが僕を心配している?どういう意味だ。

「自分を過信する人間は、ダブル・スパイになりたがる。危険を顧みず、己の力を存分に試したくなるものだ。貴様などその口だろう」
以前言われた言葉が甦る。
心配とはそのことだろうか。だから田崎に自分を監視させたのだろうか。

真木は煙草を銜えた。マッチをすると、青い炎が燃え上がった。
煙草を人差し指と中指の間に挟み、額に翳すと、その形のよい唇から吐息のように長く煙を吐き出した。

「余計なことを」
真木はひとりごちた。

写真を茶封筒に戻すと、勘定をテーブルに放り出し、席を立った。


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