「本当に主人がスパイでないことを証明してくださるのですか?」
まだ若い未亡人は、一縷の望みにすがりつく様にして、尋ねた。

フランクフルト、マイン川南岸の下町ザクセンハウゼンにあるアパート。
謎の言葉を残して自殺したロシア人イワノフ・ストラヴィンスキーの自宅である。

「僕はあの事件を調べています。真木克彦、探偵です」
名刺を差し出すと、喪服を着た金髪の若い未亡人は受け取り、じっとそれを眺めた。

「イワノフの妻、ハンナです。夫はロシア人でしたが、私はドイツ人です」
「旦那さんが自殺する前、何か変わった様子はありませんでしたか」
「警察にもしつこく聞かれましたが、いつもと変わりありませんでしたわ。ウオッカを飲んで、ひどく陽気な様子で。もともと明るい性格の人でしたから」

「悩んでいる様子などはありませんでしたか」
「悩み・・・さあ、夢見が悪いくらいで、特にこれといって」
「夢?どんな夢を見たと?」
「黒い影が追いかけてくる、と言ってましたわ」
「黒い影」
「主人はホラー小説が好きでしたから、その中にでもでてくるのかもしれません」

ハンナは紅茶を勧めた。
真木は紅茶を受け取り、その香りを嗅いだ。中にジャムが入っている。
「ロシアン・ティーですわ。主人が好きでした」
足元で、大きな白い猫が真木に体を摺り寄せた。

「夢についてもう少しお伺いしたいのですが」

「ここ半月くらい同じ夢を見ていたようですわ。黒い影に追いかけられて、最後は自分が死ぬ。私、笑ってしまいました、だってあのひと、殺しても死なないタイプですもの。戦場ジャーナリストでしたの。怖いものなどなさそうでしたわ」

「<ローレライ>について何かご存知ですか?」

「それも警察に聞かれましたけど、なにも覚えていませんの。主人は仕事のことは何も話さない人でしたから。お前は何も心配しなくていい、といって」
ハンナは上品に皿の上のケーキ、アプフェル・シュトゥルーデルを切ると、フォークで突き刺して、口に運んだ。

「とにかく主人はスパイなんかじゃありませんわ。それをあのクソッタレの、アラ失礼、ドイツ警察が、言いがかりをつけて、遺体を返してくれないんですわ。おかげでお葬式もまだできずに居ますのよ、なんてひどい話でしょう。夫がロシア人だというだけで」
ハンナは怒りが高ぶってきたのか、猛烈な勢いでアプフェル・シュトゥルーデルを平らげた。

「お気持ちはよくわかります。ご主人は日記かメモの類は残されませんでしたか」
「そういったものも警察が押収しましたけど、実はお渡ししたいものがあります」
「なんですか」

「日記ですわ。日記は二冊ありましたの。主人が薔薇の茂みに隠しているのを偶然見ていたんですわ」
「中にはなんと?」

「ロシア語は読めませんの」
ハンナは気取って答えた。




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