「福本・・・どうして・・・」

唇が震えて言葉に成らない。福本だ。あの頃と少しも変わらない穏やかな眼差し。敗戦さえも貴様を変えることは出来なかったんだな・・・。

「遅くなってすまない。小田切」
ロシア兵の軍服を着込んだ福本はそういいながら、襟元に毛皮のついたロングコートを脱いで小田切に羽織らせた。
「そっちは・・・秋元、か」
福本の後ろに控えた若い男は、秋元だった。
それにもうひとり、自分を連行してきた若いロシア兵がいた。
毛布や服をくれたあのロシア兵だ。
「協力者だったのか・・・」

「種明かしが済んだところで、出発しよう」
福本が言った。
「ぐずぐずしていると追っ手が来ますよ、お早く」
と秋元。
「何処へ行くんだ?」
車に乗り込みながら、小田切が尋ねると、福本は、
「俺たちの場所へ」
と囁いた。

若い兵は同じ車に乗らないで、気を失っていた上官を抱え上げ、トラックの助手席に乗せた。そして、こちらへ目線で合図を送ると、誰もいない草叢めがけて何発か銃を発砲した。
秋元も窓からトラックの荷台に向けて、何発か撃ち込んだ。
「偽装工作ですよ」
若い兵が上官と来るまで戻っていくのを見送ってから、秋元は車を走らせた。
「彼はシベリアから故郷に戻りたがっていた。しかし、逃げ帰るわけにもいかない。だから、上官を助け出した手柄で昇級させて帰らせてやることにしたんです。あ、ちゃんと後からあの上官に手紙を書いておきますよ。ロシア高官の名前でね。あの上官も、真っ先に気を失った恥ずかしさがあるでしょうから、深く詮索することもないでしょう」

鼻歌を歌いながら車を運転する秋元を見ていると、これは夢なのかと思えた。
俺は都合のいい夢を見ているのか?

そう思っているとき、隣にいた福本が小田切の手を強く握った。
そのまま、抱き寄せられる。
「あ、見てませんからご安心を」
秋元が茶化すのを聞きながら、小田切は福本の背中に両手を回した。
大丈夫、これは、現実だ。



礼をしてから部屋を出る。バタンと扉を閉めると、口元が弛んだ。
良かった。やっと帰れる。

このシベリアに赴任してからは、捕らえた日本人相手に毎日毎日暴力を繰り返す同僚に囲まれ、反吐が出そうだった。ただでさえ弱っている人間をさらに痛めつけて、一体何が楽しいんだ。しかし、長くい続ければ、それしか楽しみを感じなくなってしまいそうな状況が何より恐ろしかった。

そのときにあの日本人に会った。
切れ長の眼の整った風貌。日本人の筈なのに、ロシア人のようにも見えた。
流暢なロシア語で、静かに俺に話しかけてきたのだ。
暗闇で聞こえてくる言葉は、俺の気持ちを代弁してくれているようだった。
昇級して帰れる。そんな眉唾信じるものかと最初は思ったが、すぐに、嘘でもいいから誰か助けてくれ、と思うようになった。
依頼を引き受けると、男は、ありがとうと言って微笑んだ。

飛崎という男を見つけるのは少し苦労した。名札はかすれているし、名簿を持っているのは俺ではないし、聞きまわるのは危険だった。
だが、あの日飛崎が暴力を受けた日、他の兵の話から、彼が飛崎なのだと分かった。
目の前で繰り広げられる暴行に、彼は、死ぬかもしれないな、と思ったが、何をされても抵抗せず、ボロ布のように打ち捨てられた彼を見て、俺は深いため息をついた。残念だ、もう、ダメだろう・・・。

呆然とする俺の足元で、飛崎が呻いて、「ふくもと・・・」と呟いた。
その途端、それまで存在感のなかった飛崎は生命力を得たように深く息を吸い込んだ。汚く怪我だらけの身体が、なぜだかひどく色気を持っていて、思わず心臓が高鳴った。
あんなにひどく陵辱されている姿を見てもなんとも思わなかったのに。
まるで別人のようだった。
遠くからベルが聞こえた。俺ははっと我に返ると、慌てて小屋から出て持ち場へ戻った。

飛崎のことを日本人に連絡すると、すぐに指示があった。
翌日で動けるのかと思ったが、心配は無用だった。彼は、何者なんだ。
関わるな、これ以上は危険だ。俺は、帰れればそれでいいんだ。そう言い聞かせて依頼を果たした。
そうだ、帰れるんだ。

屋外は久しぶりに暖かい風が吹いていた。足元には夕べの雨で、水溜りが出来ていた。その道を官舎まで歩く。
ふと、清しい薫りがした。
見れば足元に小さな白い花が咲いていた。

シベリアの寒さがそこだけ和らぐような、そんな花だった。







































































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