しばらく男はそのままなにかを考えているように立ち尽くしていた。それから、少し離れた所からベルの音が鳴り響くと、我に返ったように小田切から顔をそらし、小屋から出て行った。

静かに扉が閉まるのを確認して、小田切はそっと目を開いた。そして、コーンビーフの缶と服を見つけると、痛む身体で何とか立ち上がった。
「ごほっ、はぁ、ははっ、・・・ひどいな」
身体に出来た無数の痣は、黒く変色していて、所々血が滲んでいる。何より、身体が鉛のように重くて、昨晩の暴行を嫌でも思い出した。
常人なら精神的にも参ってしまって、立ち上がることなど到底出来ないだろう。しかし、小田切はむしろ何か吹っ切れたような思いで足に力を込めた。
「福本・・・」

思わず唇から零れる言葉に苦笑する。小田切はロシア兵に陵辱されながらも、福本のことを思い出していた。無遠慮に自分の身体を弄られ、痛みしかない熾烈な暴行のさなか、福本のことしか意識になかった。
痛みに身体が軋むほど、小田切は福本にしかもたらされない甘く優しい感覚を鮮明に思い出していた。
そして、長い苦役で壊れかけ、朦朧としていた小田切の意識を掘り起こし、しっかりと支えていた。

「トビサキッ!」
翌日の夜、過酷な労働を終えて小屋に戻ると、例の若いロシア兵と、その上官が小田切を呼び出した。なんでも、関東軍で指揮を執っていた際の満鉄のことについて、知りたいことがあるらしい。ここから南に行ったところにある施設へ行け、と告げられた。
今更満鉄に何の用があるというのか。そもそも中尉程度の自分が、そんな情報をもっていると思っているのかと、不思議に思ったが、ここよりはいいだろうと素直に従った。
家畜を運ぶようなトラックの荷台に手足を拘束されて乗せられ、若いロシア兵が運転席に、別の上官が助手席に座った。

小田切は中国語もロシア語も英語も堪能だった。が、シベリアに抑留されてからは、ロシア語は分からないかのように振舞っていた。そのほうが、情報を集めやすかったからだ。ロシア語を話さなくても困ることはなかった。
必要なことは日本語がわかるロシア兵が片言で告げていくし、実際、何かを話す必要がなかった。何も自分の要求を話せるような扱いは受けられなかったからだ。
一方的に命令されて、連行されながら、小田切は運転席の二人の会話に耳を澄ました。
「随分大人しいな。労働から解放されてラッキーとでも思っているのか?」
「何の情報を知りたいんでしょうか?」
「たいしたものじゃないだろう、何か重大な情報があれば、労働から解放されたくて自分から言ってくるはずだからな」
「では、すぐにまた戻されますね」
「そんな面倒なことができるか。必要なくなったら処分するまでだ。まったく、今日は俺は休みだったんだぞ」
舌打ちをする男の声を聴きながら、小田切は、手足の拘束を解く算段を進めていた。

「あ?あの車は?」
「迎えに来てくれたようですね」
「気が利くなぁ!」
道の向こうから軍用車がやってきて、クラクションを鳴らし、少し離れた場所で停まった。
軍服を着た男が降りてきた。
若い兵が車から降りるとその男の下へ駆け寄り、敬礼をすると、なにやら地図を広げて話し合っている。
「どうした?」
そう呼びかけて、上官も車から降りて呼びかけると、若い兵はこちらに向かって、
「場所が変更になったそうで、迎えに来られたそうです!」
と返事を返した。

「まったく・・・」
上官は不満そうな顔で三人の下へ歩み寄ろうとしたその時、突然近くの茂みで爆発が起こった。
上官は吹き飛ばされ、道路の端で気を失った。
なんだ!?ゲリラか!?
小田切は急いで縄を外し、手足の拘束を解くと、トラックの荷台から転げ降りた。そして、そのまま草叢の中へ飛び込んだ。
「・・・!」
しかし、そこにはやはりロシア兵が待ち構えていた。
ゲリラではない、・・・軍服だ。
息を呑んで小田切は顔をあげる。
男は、ずっと待ち望んでいた笑顔でまっすぐ小田切を見詰めていた。














































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