今日もコーンビーフの缶詰ひとつ。
小田切は虚ろな目でそれを見た。

昨日また一人死んだ。珍しいことじゃない。ここでは毎日人が死ぬ。まだごく若い、少年のようなロシア兵が、わずかに気の毒そうな顔をした。

敗戦が決まっても、ロシアは日本人をシベリアに抑留し、鉄道建設やその他の工事に駆りだした。ろくな食べ物もなく、コートもなしで、大勢が寒さや飢えで病気になり朝には冷たくなっていた。生き地獄・・・ただ死ぬためだけに働かされている。生きて日本の土を踏むことはもうないのだろう。小田切はコーンビーフの缶詰を見つめたまま、帰りたい、と思った。
福本はどうしただろう・・・。

「違う!俺は関係ない!誰か、説明してくれ!」
突然小屋の入り口で叫び声が上がった。
見れば、比較的体格のいい日本人が、ロシア兵に腕を掴まれて小屋から引きずり出されようとしていた。男の顔は蒼白で、捕虜になって全てを諦めたこの状況よりもさらに酷い現実があるのかと、皆が怪訝な顔で見つめている。
ロシア兵が話す言葉はこちらまでは聞こえてこない。だが、かろうじて口元が見えた。
「日本のスパイだろう」と。

小田切はわずかに目を上げた。男は引きずり出され、しばらくしてから銃声が響いた。処刑されたのだろう。スパイ?あの男がスパイだって?小田切の口からくっくっとゆう笑い声が漏れた。スパイならここにいるぞ!俺がそうだ!さあ、殺すがいい!!
そう叫びだしたい気分だった。
とうとう気が触れたのか?だがそれも、ここでは珍しいことじゃない。
周りのものは小田切から目をそらした。明日はわが身、誰もがそう思った。

「貴様、外へ出ろ」
静かに声が響いた。小田切の笑い声が気に触ったのだろう。近くにいた若いロシア兵が、小田切の襟首を掴んでひっぱると、背中を蹴り飛ばした。
ろくな食べ物を食べていなかった小田切は、たいした抵抗も出来ずに、地面に転がった。

「なにがおかしい」
頭を踏みつけながら、ロシア兵が詰問した。答えたくても踏みつけられているので答えられない。もうひとりのロシア兵が、「ほうっておけ、気が触れたんだ」と言った。
「食料を取り上げろ。しばらく飯抜きだ」頭を踏みつけながら、若いロシア兵が唾を吐きかけた。

しかし、呻きながら上体を持ち上げようとしている小田切の髪を、もう一人の兵士が掴んで顔を覗き込んだ。
「待て・・・、もっと面白いことを思いついたぞ」そういうと、兵士はくくっと下衆な笑い声を漏らした。

ガッ!
乱暴に腹を蹴られて、身体を折り曲げた。中には何も入っていない胃袋では、痛みに耐えるのは難しい。必死に呼吸をして、酸素を体内に取り込む。
それなのに、また襟首を掴まれて、無理やり座らされるから、気管が圧迫されて、息苦しさが増した。
「いいザマだな。お前、関東軍の指揮官だったって?おい、こっち向けよ!」
小屋から引きずり出され、建物の裏で、5人のロシア兵に囲まれ、先ほどから小動物をいたぶるように蹴られている。
ほんと、いいザマだ・・・。
こんな情けない姿、見せられないな、福本には。
あぁ、でも結城中佐なら、まだまだだと言うだろう。
このくらいの痛み、あの人の訓練には到底及ばない。

「待て」
ひとりが小田切の様子に気づいた。
「効いてないようだぞ・・・」小田切の顎を持ち上げて、瞳を覗き込んだ。
「日露戦争の時は世話になったな。お陰で俺たちはいい笑いものだ。あんな小さな後進国にしてやられて」
男は立ち上がると後ろを振り返り、
「服を剥げ。見せしめにしてやる。関東軍の指揮官さんよ」
にやりとした。

男たちは顔を見合わせると、気味の悪い笑みを浮かべた。このシベリアの収容所は、囚われている日本人にとってもちろん地獄だったが、見張りをしている兵士たちにとっても決して楽園とはいえなかった。
寒さに震え、バタバタと死んでいく日本人を眺めながら、身体こそ丈夫なものの、精神が死んでいくような感覚に囚われていた兵士も少なくない。小田切は自分を押さえつけているロシア兵の顔を見上げた。
まだ若い。自分よりいくらか年下のようだ。
張り付いたような嘲笑を浮かべているが、故郷に帰れば明るい家庭の素直な息子なのかもしれない。
ふと、自分を押さえつける手が震えている事に気づいた。彼は、まだ、戻れる。
元の生活に、今なら。
小田切は着ていたボロボロの服を引きちぎられ、裸にされようとしていることなど気にも留めず、そんなことを考えていた。

小田切が解放されたのは明け方だった。
痛めつけられ陵辱されて、裸で床に転がされた小田切はピクリとも動かなかった。
周りに兵士の姿はない。
明け方といっても本当に夜が明けるのは昼前で、シベリアの朝は暗い。
ふいに扉が開いて、男が入ってきた。
小田切がまだ若いと思ったロシア兵だ。青年は無言で小田切に毛布をかけると、側に新しい服と、コーンビーフの缶詰をひとつ置いた。
そうして無言のまま小田切を見つめていた。






















































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