佐伯は食堂にいた。
主人よりも遅く起きる、というのはありえない事態だが、仕方ない。
俺が顔を見せると、佐伯はいつもの朝となにも変わらない様子で、近頃は手に入りにくくなっているコーヒーを飲んでいた。

「起きたか」
そう言って、佐伯は新聞を広げた。
「おはよう、ございます、マスター」
俺はやっと、それだけ言った。
俺はキッチンに立ち、トーストを焼き、目玉焼きを作った。
銀のトレーに乗せて、それらをテーブルに運ぶ。

佐伯はというと、新聞を睨んだまま、難しい顔をしている。
「なにか、悪いニュースでもありましたか・・・?」
「本間が逮捕された」
「え?」
「スパイ容疑だ」
佐伯は新聞をテーブルに投げ出した。

見出しにはでかでかと、日本人逮捕のニュースが乗っていた。
写真を見ると、見覚えのある顔だ。
本間。
佐伯と親しくしていた、あの男か。

「英国政府め、本間を囮にするつもりか」
「囮?本間さんはスパイじゃないのですか?」
「奴はスパイなんかじゃない。害のない民間人を囮にして、ホンモノのスパイを炙り出す気だ」
「ホンモノのスパイ・・・」
その言葉は妙に引っかかった。
佐伯は、もしかしたら、ホンモノのスパイを知っているのではないか。
そんな気がした。

俺は目の前にいる男が、得体の知れない人間のように感じた。
まるで異国の、スパイのように。

俺はある日、目が覚めると、全ては夢で、屋敷も、マスターも、煙のように消えうせるような気がして、怖かった。
いまある幸せが全て幻のような気がして・・・。
俺はまた道端で目覚め、人々に足蹴にされながら、紳士たちの靴を磨く・・・。
そんな毎日に埋没していく。
そんな予感がしていた。

そうなれば、俺に残るのは、手首のこの傷だけかもしれない。
inserted by FC2 system