だが、痛みはなかった。

佐久間が目を開けると、実井の目から一筋の涙がこぼれた。
カランカラン。
2本の短剣が床に堕ちた。実井はだらりと腕を垂れ、前のめりに倒れこんできた。
「おい!」
慌てて佐久間が受け止める。
実井は気を失った。


「・・・わかったでしょう?犯人は僕なんですよ・・・ずっと押し殺してきた、もうひとりの僕・・・速見涼」
「速水、涼?」
「僕の本名です・・・新橋の芸者だった僕の母は、軍人に犯されて、殺されました」
実井は遠い目をした。
「幼い僕も同じ目に遭いましたが、命だけはとりとめた・・・そして、その母を殺した軍人に、僕は育てられました」
実井の壮絶な過去に、佐久間は絶句した。

「僕は養父から虐待されても、それが普通のことのように、何も感じなくなっていった。・・・だが、ある日、僕は弾みで養父を殺してしまったんです。人ってこんなに簡単に死ぬのかと、拍子抜けしたほどでした。そして、そのことは誰も知らないと思っていた」
ベッドのうえで、実井は天井を見上げたまま、淡々と語った。
「ところが、結城さんは何もかも知っていた。何もかも知った上で、僕をスカウトしてくれたんです・・・僕が、結城さんに普通以上に恩義を感じてもおかしくないでしょう?」
「だが貴様は、いままで死ぬな、殺すなの教えを守って・・・」
「ええ。平時、それを護るのは簡単なことでした。でも、戦時になって・・・この生活に堕ちた時、あいつが現れたんです。軍人を憎む、もう一人の僕が」

実井は、吐息した。

「最初は気づきませんでした。態度の横柄な、乱暴な軍人の相手をした後、決まってその相手が毒殺される・・・そんなことを繰り返すうちに、僕は漸く僕自身の仕業だと気づいたんです。僕には記憶喪失の時間があって、その時間にあいつは、軍人に制裁を加えていたんですよ・・・」
実井は両手で顔を覆った。
「もう、D機関には戻れない。僕は、死ぬな、殺すなの教えを破ってしまった・・・」

実井の細い肩は震えていた。佐久間はそれを抱きしめることしかできなかった。









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