「必ず、戻る」

そう佐伯は言ったが、結城さんは11月のキール軍港の水兵の反乱に乗じて独逸を脱出したはずだ。反乱まではまだ一ヶ月ある・・・。

秘密警察の軍人がなだれ込んできた時、結城さんに驚いた様子はなかった。
「もう来たのか。来るのが少し早かったな」
と、まるで待ってでもいたかのような口ぶりで、身支度を整え、連行されていった。

行方は杳として知れない。
D機関すら存在しない現在では、17歳の僕に使える協力者はいない。
いるとすれば・・・ヘルムートの顔が浮かんだ。

だが、次の集会までまだ一週間ある。その一週間のうちに、佐伯は左手を失うだろう。つまびらかには語らないが、結城さんは左手を拷問で失ったのだ。
けして裸を人に見せないのも、そういう理由だろう。

だが、それも歴史の一部だ・・・左手を失わなければ、結城さんは結城さんになりえないだろう。復讐心に燃えることもなく、D機関は設立されない。
僕と出会うこともなくなる・・・。

だが、僕はもうここにいる。死んだはずの僕がこうして、若い頃の結城さんに出会ったことに意味があるとすれば、僕にできることをしろという、神のメッセージなのだろう。
ああ、あるいは運命のいたずらか。

悩んでいる時間はなかった。
とにかく、ヘルムートを探して、それから。

忙しく計画を立てていると、アパートの戸口に、男が立っていた。
「よお・・・元気か?マキ」
のんびりとした声は、ヘルムートだった。
「警察の出入りがあったって、噂に聞いてね。こりゃあ、随分荒らされているな」

佐伯の逮捕後、一切合財をひっくり返し、警察は金目のものは全て持ち去った。
残ったのは、ひそかに僕のポケットに滑り込ませた腕時計だけだ。
裏を外して調べてみたが、特に仕掛けはない。普通の時計だ。
時計は貴重品だから売れば金になるが、それだけのものだ。それとも、他に意味があるのか?

「佐伯さんは連行されました」

「そうだってな。俺が来たのは、君が無事か確かめる為だ。一緒に連行されていてもおかしくはないからな」
「僕ですか?」
「君のことはサエキに頼まれている。一緒に来い」
ヘルムートが僕の手をひっぱった。

「そんなこと、どうして信じられるんですか?貴方が、嘘をついている可能性だってある」
「ガキの癖に人を疑うなぁ。俺が君を人買いに売るって?まぁ、正直、君ほどの美少年なら高く売れるとは思うけど、俺はこう見えても仁義には厚いんだ」
仁義。

「サエキは君に時計を渡したろう?金無垢の。あれは、もともと俺の時計だ。ポーカーで負けて、サエキに預けたものだ。それを返すかわりに、君の面倒を見ろって、夕べ言われたんだよ」
夕べ一緒だったのは、女じゃなくて、ヘルムートだったのか。
いや、たぶん、キャバレーかなんかで飲んでたんだろうけど。

「じゃあ、やっぱり逮捕されるのを知ってたんですか」
「奴は<魔術師>の情報をリークする為に、わざと捕まったんだ。情報とひきかえに、仲間が釈放されたはずだ。これは、取引なんだ」
「仲間?」
「俺の親しい仲間が3人。警察は<魔術師>を捕まえたくてやっきになっていたからな。夕べ、サエキは俺に、そのことを話してくれた」

逮捕劇は自作自演か。では、真相は祖国に売られたわけではなく、自殺行為だったんだ。自分で、自分の情報を、参謀本部の名をかたって、リークしたんだ。

佐伯は自分の命よりも、独逸革命の成功に賭けたのか。
独逸革命が成功すれば、王は亡命して、共和国になる。そうして、独逸は連合国に降伏を宣言することになる・・・。ひいては連合国側の日本の勝利。
そこまで読みきってのことだろう。

第一次世界大戦の華々しい日本の勝利の影には、佐伯の暗躍があったのだ。
佐伯は自らを独逸に売った。
その代償が独逸の敗戦。代償は大きすぎる・・・。だが、スパイとして、これ以上の栄誉があるだろうか?
いままで、独逸に捕まったスパイという失敗談としてしか捕らえていなかった結城さんの過去の謎に、迫った気がして、僕は紅潮した。

自分を盾にした危険すぎる賭けだが、まだ若すぎる結城さんには、その程度の無茶はなんでもなかったのだろう。

「やっと、信じたようだな」
ヘルムートはにやりと笑った。










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