正体をなくすほど酔うのは久々だった。

目が覚めると、自分がどこにいるのかわからなかった。
ゆうべ、ホテルのバーで福本と飲んで、ハイボールを10杯くらい煽った。
女の話をしてたような気がするが、記憶も曖昧だ。
そこで記憶は途切れている。

ダブルベッド。立ち上がってカーテンを開けると、眩しい日が差している。
時計を見ると8時過ぎだった。
いささか寝過ごしたが、小田切はもうどこへも出かけなくていい身分だ。
今は、満州に渡る準備に追われているだけだった。

背広はきちんとハンガーに掛けられていた。
福本が掛けてくれたのだろうか?自分で掛けたはずはないが・・・。

目を覚ますために、洗面所で顔を洗った。
鏡を見ると、やや精悍な、自分の顔が鏡に映る。
自分の顔。そうだ、これが、本来の俺の顔だった。

飛崎弘行中尉。それが俺の名前と肩書きだ。

もう小田切じゃない。
そう思うと、なにか大切なものを取り戻したような気分になれた。

「女は殺す・・・愛情や憎しみなどの取るに足らないもののために」
と結城中佐は言ったが、愛情や憎しみなどに囚われて男を殺す女こそ、愚かで愛しい。それを、取るに足らないと切り捨てることは、俺にはできない。

飛崎は思った。

フロントに立ち寄ると、会計は済まされていた。やはり、福本だろう。

ゆうべ、ちづねぇの夢を見ていたような気がする。
だが、朝起きると、唇の中にさくらんぼの種が残っていた。
これは・・・なんの暗号だろうか?
ゆうべ、無意識のうちに口にしていたのだろうか・・・?

それが、福本の別れの言葉だったとも気づかずに、飛崎はフロントのガラスの扉を開けて、外へ出た。

活気に溢れた東京の街は、とっくに動き出している。
飛崎の姿は、押し寄せてくる雑踏に紛れ、やがて見えなくなった。




inserted by FC2 system