宿舎に入ると、あたりは静まり返っていた。
肩に積もった雪を払い、僕は誰もいないのを確認すると、奴の部屋に向かった。
古い木造建築の2階角部屋。調べはついている。

廊下には薄暗い電灯がところどころについているので、懐中電灯は必要なかった。
歩くたびにみしみしと音を立てる廊下を移動し、階段を上る。
とうとう部屋の前まで来た。

部屋の鍵はあらかじめ用意していた合鍵で開いた。
懐中電灯をつける。がらんとした一間の6畳の和室。地味な絨毯がしいてある。窓際に机と椅子があり、本棚と洋服を入れる戸棚があるだけの、殺風景な部屋だ。これでは寮と変わらない。
日記を隠すとしたら、まずは引き出しだろう。そう思って、机に近づき、そっと引き出しを開けようとしたその時、
背中に強烈な一撃を喰らい、僕はあっさりと意識を失った。

目が覚めたときは、自分がどこにいるのかわからなかった。
ただ真っ暗闇で、遠くに光が揺れていた。

両手を後ろ手に縛られて、床に転がされている。
海の匂いがする。どうやらここは舟の上のようだ。
さっきから頬に当たっているのは、雪・・・?

「何を探していた」
声と、オールを漕ぐ音が聞こえた。
目が慣れてくると、黒い見覚えのあるシルエットが浮かび上がった。
結城中佐だ。
「日記帳」
正直に答えると、しばらく沈黙があった。
「貴様はソ連のダブル・スパイか」
僕はぎょっとした。冗談じゃない。
「違う・・・違います」
「貴様はロシア語が堪能だからな。怪しいとは思っていた」

話はとんでもない方向に行くようだった。
「とんでもない、僕はただ」
口の中が乾いて言葉に成らない。
「僕はただ、なんだ」
「貴方の・・・正体が・・・知りたかった、だけ、です」
「俺の正体だと?」
オールを漕ぐ手が止まった。
ボートは揺れている。
僕は緊張のあまり吐きそうだった。
自分がここにいることの意味に、突如気づいたからだ。

D機関の訓練生の中に、敵国のスパイが紛れ込んでいる。
そんな噂は前からあった。だが、誰も本気になどしていなかったはずではなかったのか。よくある都市伝説的なものだろうとタカをくくっていた。
それなのに。
よりによって、この僕がダブル・スパイとして始末されようとしている・・・?
「僕は、ロシアの、スパイなんかじゃない・・・」
「馬鹿め」

凄い力だった。
結城中佐は、片手で僕の肩を掴み、立ち上がらせると、一瞬抱擁した。
それから、思い切り突き飛ばし、真冬の海へ突き落とした。


「死ぬな・殺すな」の掟、あれは全部嘘だったんだ。
再び薄れ行く意識の中で、僕はそんなことを考えていた。
そんな奇麗事を信じたなんて、僕はなんて愚かだったのだろう・・・





inserted by FC2 system