ドイツ、ドレスデン。

エルベ川が流れる平地に開けた街で、川を挟んで南が旧市街、北が新市街に分かれている。もともとはザクセン王国の首都であっただけあって、ツヴィンガー城やドレスデン城、大聖堂やフラウエン教会などの歴史的建築物が密集した、美しい石畳の町並みである。

入手した機密情報の受け渡しに、結城中佐は船を指定してきた。
この船旅はエルベ川クルーズと呼ばれ、船旅のハイライトは、ドレスデンからピルニッツ宮殿の間の12キロ、片道約1時間50分のコースである。

小型の蒸気船で、乗客もまばらだ。
だが、結城中佐の姿はなかった。
三好、いや、真木克彦は、仕立てのよいダークスーツに身を包み、フェルト帽を目深に被り、周囲に油断なく目を光らせながら、エルベ川の景色に見惚れているようなふりをした。手には仕事用の小型鞄を持っている。

しばらくデッキにいたが、何の音沙汰もないので、階下に下りて、珈琲を飲むことにした。そのうち接触があるだろう。
「お待たせしました」
運ばれてきたのはマイセンのカップに入った美しい琥珀色の飲み物だった。
真木がカップを持ち上げると、下にメモ用紙が挟んである。
はっとして、メモを見ると、日本語で、
「オンナヲクドケ」
と書いてあった。

女を口説け?どの女だ?

意味が分からず、周囲を見回すが、船に乗っているのは年配の女性ばかりで、口説くに値するような若い女性は、先ほど飲み物を運んできた金髪のウエイトレスくらいしかいない。
真木は咄嗟に立ち上がり、若いウエイトレスの後姿を追いかけた。

ウエイトレスは厨房に姿を消した。
真木が厨房の入り口で待っていると、ウエイトレスはアイスクリームを持って現れた。
「お客様、どうかしましたか?」
「・・・君の瞳はエルベ川のさざなみのようだ・・・」
「はい?」
「僕は君の美しさにハートを射抜かれてしまったんだ。だからどうかこの哀れな僕と一緒にお茶を飲んでくれないか・・・・?」
大げさに胸ポケットから薔薇を取り出して、ウエイトレスに差し出そうとした時、
「図々しい日本人!」
ウエイトレスの持っていたアイスクリームが、真木の顔にぶっかけられた。

「やれやれ、ひどい目にあった」

ハンカチーフで顔を拭いて、ぶつぶつ言いながら席に戻ると、背後の窓際の席に見覚えのある帽子と、白い皮手袋に杖を持った紳士を発見した。
結城中佐だ。
声には出していないが、肩は思い切り笑っている。
真木は顔が熱くなるのを感じた。

「ふっ、まだまだだな」
「いつから見ていたんです?人の悪い」
「最初からさ。なかなか面白い見世物だった。貴様は文学小説の読みすぎだ」
「ジゴロの実践なんて、もう長いことやってないからですよ。何のマネです。大柄なドイツ娘を口説けなんて、だいたいタイプじゃないし」
真木がなおも言い訳を募ろうとすると、中佐はそれを片手で制した。

「ジゴロには臨機応変が必要だ。ここはベルリンじゃない。ドレスデンの田舎娘には、お前はただの黄色い日本人なんだ。それを忘れるな」
「わざわざ僕の鼻を折る為に、あんな司令を?」

「貴様は自惚れが強すぎるからな。いい薬だ」
結城中佐はニヤリとした。

「エルベ川の、いい思い出ができましたよ」
真木はそう強がりを言って、煙草に火をつけた。






















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