「用が済んだら戻るよ。この部屋に」
マキは確かにそう言った。だが、戻らなかったのだ。彼は。

次に対面した時は、彼は小さな柩に収まり、眠り姫のように眠っていた。
意外なほどあどけなく、その死に顔は安らかだった。

「主は羊飼い、私には何も欠けることがない・・・」

黒い服を着た長身の神父が、小さな赤い皮表紙の聖書を読み上げている。
長くて白い顎鬚を生やした、高齢の神父だ。
穏やかで憂いに満ちたよく響く耳障りのよい声だった。
黒い帽子を目深に被っている為、その表情は見えない。



あのベルリン郊外の列車事故で、カツヒコ・マキが亡くなったのを知ったのは、ローゼン通りのアパートに軍人が押し寄せたからだ。

複数の足音が聞こえ、ドアが激しくノックされた。
「はい」
「ハンス・シュタイナーだな?」
「そうですけど、なにか?」
「この写真を見てくれ。列車事故の被害者だ。写真の人物に見覚えはあるか?」

見せられた写真は、ベッドに仰向けにされた血だらけのマキの写真だった。
黒い瞳は見開かれており、もはや息をしていないのが伺えた。
「見覚えはあるか?」
横柄らしい軍人は、重ねて尋ねた。隣には金髪の若い士官が立っている。

「これは・・・マキだ。一階下に住んでいるカツヒコ・マキ・・・」
「間違いないな?」
「ええ・・・でも・・・」
俺は写真を眺めながら、
「こんなに・・・美男だったか・・・?なんだか死んでからのほうが、
存在感があるような・・・」
「彼と親しかったんですか?」
金髪で蒼い目のまだ若い士官はそう尋ねた。

「顔を見たら挨拶をする程度だったけど、それだけですよ」
軍人には関わらないほうがいい。俺の防衛本能はそう告げていた。

階下が騒がしい。マキの部屋を家捜ししているのだろう。
なぜ、事故の被害者の家を家捜しする必要がある?
きっとマキは、スパイと疑われるような何かを、身につけていたに違いない。



「主は、私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる・・・」

マキの眠る柩の前で、神父の朗読は続いていた。
朗読が終わると、数人の参列者は柩にそれぞれ白い薔薇を投げ入れた。
それに紛れ、俺は一輪の赤い薔薇を投げ入れた。
なんとなく、マキには赤い薔薇のほうが似合う気がしたのだ。

「ありがとう」
気のせいか、黒い服の神父がドイツ語でそう呟いたのが聞こえた。
神父は胸の前で小さく十時を切った。

柩の蓋が閉じられると同時に、白い鳩が一斉に空に舞い上がった。
蒼い空は澄み渡り、空気は冷たく透き通っていた。

帰る時、神父の後姿が人ごみにまぎれるのを見た。
片足を、僅かに引きずっていたようだった。




































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