気がついたときにはベッドの上だった。
「痛え・・・」
なんだあれは。ジュードーだろうか。
あんなに華奢なマキに投げ飛ばされたのだとは信じがたい。
窓の外を見ると、雪はやんでいた。
静かな闇が広がっている。

サイドテーブルの上にはオレンジが置かれていた。
マキが拾ってくれたのだろう。

マキは怒っているのだろうか?
俺は彼の冷たくて柔らかい唇を思い出していた。

日本人はミステリアスだ。
特に、マキ・カツヒコは。


翌朝。昨日のカフェに行ってみた。
道路に雪は残っているものの、空は曇天だ。
マキは老婆の言うとおり、英字新聞を読んでいた。
一部の隙もない焦げ茶色のスーツに、ネクタイ。
俺の姿を見つけると、軽く息を吐いて、新聞を畳んだ。
「やあ、ここにいると聞いて」
「何か用?忙しいんだけど」
「忙しそうには見えないな」
同じテーブルにつくと、ペリエを注文した。

「友達になりたい」
「友達?」
「昨日みたいなことはもうしないから」
「どうだか」
珈琲が運ばれてきた。ペリエも。
「君だって、ドイツ人の友達がいたらイロイロと助かるだろう?」
マキは視線を伏せて、
「少し、考えさせて」
と言った。

考えるという言い方が、日本人に特有の断り文句だと知ったのは、だいぶたってからだ。
「君はミステリアスだな」
「そう?自分じゃわからない」
「近所のお婆さんが、君はイギリスのスパイだって」
言うと、マキはカップを口に運んで、珈琲を飲んだ。

「イギリスのスパイ?心外だな」
「どうして君は英語を話すんだ?ドイツ語もわかるんだろ?」
「ドイツ語のうまい日本人なんて」
マキは笑った。
笑うとそこだけ日が差すようだ。
「それこそスパイじゃないか」

マキが畳んだ英字新聞の見出しは、世界的な株の下落だった。
不穏な空気が、ベルリンを、いやドイツ全体を支配していた。
何かが起こるような、暴力的な空気が。
ユダヤ人や外国人を狙うテロ事件が後を絶たない。
「君はどうしてベルリンに来たんだ?」
「観光だよ」
「なに?」
「ベルリンに知り合いがいて、いい所だって聞いていたから。最初は短い観光のつもりで来たんだ。トランクひとつで」
「ドイツの魅力に取り付かれた?」
「そうだね・・・うん。満足しているよ」

「ベルリンは美しいね」
そういってマキは曇天を見上げた。また、雪が降り出しそうな色をしていた。
「明日から旅行に出る。商用で」
「どこへ?」
「君には内緒だよ」
悪戯っぽく微笑して、マキは人差し指を立てた。



























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