ドイツ、ベルリン郊外。

俺が初めてマキに会ったのは、雪の降る朝だった。
1年前に階下に越してきた謎の東洋人。なんでも美術商らしい。
事前に知っていたのはそれだけで、廊下で擦れ違うことさえなかった。

足元にオレンジが転がってきた。
それを拾い上げて振り向くと、見知らぬ東洋人が立っていた。
「ありがとう」
綺麗なドイツ語で、彼は礼を言った。
俺はあっけに取られて、オレンジを返すのを忘れた。
その東洋人が意外にも美しかったからだ。

「それ、良かったらあげるよ」
俺がオレンジを返さないのを見て、彼は言った。今度は英語だ。
「どうも」
礼を言うと、にこりとして、それから踵を返す。
「君・・・君、名前は?」
俺が尋ねると、彼は答えた。
「真木克彦」
変わった響きだ。ドアの向こうに消えた。


近所に住む情報通の老婆によると、マキは日本人だということだった。
美術を売るために、よく旅行をしているらしい。
どうりで見かけなかったわけだ。
朝は近所のカフェに行って、よく英字新聞を読んでいるらしい。
「いい男だけどねえ」
老婆は言った。
「あれはイギリスのスパイだと思うのよ・・・」
「だけどおばあさん。マキは日本人だろう?スパイはないよ」
「そうかねえ」
それに、と俺は言った。
「あいつはスパイになるには目立ちすぎる。東洋人だし、それに」
美少年と呼びたくなるような美貌だ。

「28だよ」
老婆は突然言った。
「なに?」
「あの男は28だという噂だよ。随分若く見える・・・」
「独身なのかい?」
「独身さ」
「恋人は?」
「いないんだろうよ。女が尋ねてきたことはないよ」
「ふーん」
俺はマキの生意気そうな、激しい情熱を秘めていそうな顔を思い出した。
恋人は女とは限らない。
「男は?誰か尋ねて来なかった?」
「男は時々来るよ」
「外国人?」
「さあ・・・帽子を被っていてよく見えないから」

部屋のサイドテーブルにオレンジを置いた。
それだけで殺風景な部屋が明るくなる感じがした。
なぜ、マキは俺にオレンジをくれたのだろうか。
部屋に尋ねていって、聞いてみたい気もした。

部屋の前に来た。
思い切ってノックする。
しばらくして、返事があり、ドアが開いた。
「君は」
「さっきはどうも」
マキは部屋を振り返り、困った顔をした。
「生憎散らかしてるんだ。何か用?」
「君と話がしたくて」
「話?なんの?」
「美術の。美術商なんだろ?君」
面食らったかのようなマキの顔。
「部屋は困るな。近所のカフェにでも行こうか」


マキはカフェの常連客らしく、注文もしないのに飲み物が来た。
「旅行をして美術品を売り歩いてるんだって?楽しそうな仕事だ」
「楽しいよ。自分で始めた仕事だからね」
マキは珈琲を口に運んだ。その仕草は優雅で、気品を感じさせた。
「君は貴族じゃないよね」
「貴族?」
苦笑して、マキは珈琲をテーブルの皿の上に戻した。
「君はどうみても金持ちの子供だ」
「そうかもしれないけど。貴族なんかじゃないよ・・・」
ペリエが運ばれてきた。
「君は僕に詳しいみたいだね。僕は君の名前すら知らないのに」
「ハンス」

「俺の名前はハンス・シュタイナーだ」
「よろしくハンス」
差し出された手は冷たかった。



続く





































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