船が港に着いたとき、既に田中の姿はなかった。

大勢の客に紛れ、下船したのだろう。
そう思っていると、ボーイの少年が手紙を持ってきた。

<またお会いしましょう。T>

T。田中だろう。
気障なまねをする。
僕は手紙を破り捨てた。

「行く先々で、お会いするかもしれません」
田中は確かにそういった。
あんな奴に付きまとわれては、任務に支障をきたす。
だが、それなりの情報があるならば、話は別だ。
情報。
それを得る為に、僕達は命さえも賭けている。

それにしても、多重人格とは、本当なのだろうか。
演技にしては真に迫っていたが、田中もスパイだ。その程度の演技は朝飯前だろう。
でも、田中の話が本当だとしたら、海軍も、妙な研究をしているものだ。
思った以上に、胡散臭い。
怪物を作り出して、一体なにをしようとしているのだろうか?
新見を使って、テロでも起こすつもりか。

僕はトランクを持つと、帽子を被り、船室を出た。
既に、船を降りる人の長い列が廊下まで及んでいる。
その中に、杖を突いた白手袋の紳士が紛れていた。
俺ははっとして、思わず駆け寄った。

だが、その顔は見知らぬ老人だった。
人違いか・・・。
老人はゆっくりと片足を引きずりながら船を降りていった。

結城さんには、ドイツで会えるはずだ。
だが、よもや同じ船で来たわけはないだろう。
そう思ったが、多少不安は残る。
まさか、田中とのやりとりを覗いていたんじゃないだろうな・・・。

先輩たちの話によると、結城さんは神出鬼没で、影のようにどこからともなく現れるらしい。
結城さんはどこにでも現れて、僕達を監視している。
それはまるで、魔王の化身のように。
誰かの言葉が甦った。







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