「悪かったな、怒ったりして・・・」
甘利が言った。

潮風が気持ちいい。
「お前、俺がここにいることを、D機関に伝えただろう」
「・・・!」
田崎はドキッとした。スパイを辞めて隠れている甘利の場所を教えた。
その意図するところは・・・。
「いいんだ、お前の気持ちはもうわかった」
「なにが、・・・わかるんだ!」
甘利は田崎の顔に手をやって、キスをした。

「日本に一緒に帰りたかったんだろう?
エマ、すごいだろう?ここへ来てエミリーと名乗らせているけど、完璧に使い分けているんだ。お前に懐いているのは、本名のエマを名乗れる安心感なんだろうな。
お前の言うとおり、彼女の知能は凄いよ、もっと小さい時に、母親がスパイの道を選ぶのを見てきたからだろうが、見ていて辛くなるくらいの集中力だ。まるで、D機関の人間とおなじさ」

「お前は・・・ここでずっとエマと暮らすつもりなのか・・・?」
田崎の言葉に、甘利はふっと笑うと田崎を見た。

田崎は泣きそうな顔をしていた。
「田崎。お前がここに来てくれた時、それもいいなって思ったよ・・・でも、彼女には本当の親が必要だ。偽物の名前を使わなくていい本当の家族がね」

けど、彼女の母親は、独逸のスパイとしてイギリスに捕まっている。生死も定かではない。田崎は遠く海の向こうを眺めた。

「さっき、マーケットの近くで接触してきた奴がいた。福本だったよ。結城さんは俺がエマを連れていることを知って、エマの母親をイギリスから脱出させる計画らしい。俺の名前を出して、協力者にさせるためさ。イギリスもドイツもよく知っている。結城さんがほおって置かないわけだ」
「じゃあ」
「帰る日も近いさ」

田崎はやっと心から笑った。その笑顔は夕日の中でより一層甘利の目をひきつけた。
「だが」
甘利は真面目な顔をして、田崎を見た。
「俺はこのままでは帰れない。嫉妬で狂うのは嫌だ」

「もう、しないよ」

田崎は言ったが、甘利の憮然とした表情は変わらない。
「田崎、俺の前では、演じないでくれ。俺だけには、本当のお前を見せてくれよ」
田崎の肩に顎を乗せて、甘利は苦しそうに言った。
「そうしたら、お前にも、本当の俺を見せる」
「本当の?」

「ああ、・・・一度しか言わない。お前だけにやる。お前に呼んで欲しいんだ。内海でも甘利でもない、俺の本当の名前は・・・」

田崎は目を閉じた。
スパイにとって本当の名前を明かすことの重さ、田崎は胸を押さえた。もうひとりじゃない。

「俺は、俺の本当の名前は・・・」

二人はお互いの名を呼びながら、再び肌を重ねた。
先ほどとは違う、溶けるほどの甘い感覚に酔いしれながら・・・。












inserted by FC2 system