その噂を聞いたのは、田崎が潜り込んだ<ラッフルズ・ホテル>でだった。

田崎がバーテンをしているカウンターに座って、男はマンハッタンを注文した。
<添え物をチェリーにしてくれ>と男は言った。それが暗号だった。

この男はD機関員なのだ。

田崎は器用にシェイカーをふると、マンハッタンにチェリーを添えて出した。
「Aが姿を消した。・・・船をハワイで降りたという噂だ」
男は言った。
「降りた時、同じ船の女性客の2歳の娘と一緒だった。名前はエマ。わかっているのはそれだけだ」

A、甘利のことだ。
努めて冷静を装いながら、田崎は男に尋ねた。

「なぜそれを俺に?」
すると男は、懐かしいような微笑を口元に刻んで、
「・・・貴様は興味があるだろうと思って、親切心さ。下心はないよ」
と答えた。

男が去ってから、田崎は男の正体に気づいたが、もうそこには誰もいなかった。
福本だ。変装していたが、あの口元は確かに・・・。

それにしても、甘利がエマとか言う少女と一緒にハワイで船を降りた。
そこで姿を消したとはどういうことだろう・・・。
消されたのか、或いは、自ら身を隠しているのだろうか?

いても立ってもいられず、すぐにでもハワイに飛んで行きたいが、生憎、田崎にも任務があった。任務を途中で放棄することは、プロとしてあるまじき失態だ。

ここシンガポールで、じりじりとする日々を過ごすうちに、世の中はどんどんきな臭い方向へと動いていった。新聞の見出しは大げさになり、正義、だの、戦争、だのと、民衆を戦争へと煽り立てる。
常連客の英国人の話も、最初はひそひそ声、次第に声高になり、正義だの戦争だのという言葉が飛び交うようになっていった。

そのうち事件が起きた。ホテルに宿泊していた英国人の実業家が、転落死したのだ。この事件を境に、田崎は<ラッフルズ・ホテル>を後にした。
完全に潮時だった。

本当なら一旦帰国せねばならないその足で、田崎はシンガポールから船に乗り、ハワイに向かった。


甘利。無事でいてくれ・・・。
祈るような気持ちだった。
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