「なぜ泣くんだ?君は僕の顔を見ると、いつも泪を流す」

佐伯は親指で僕の泪を払った。
結城さんがよくやる仕草だ・・・。

「また、結城さんとやらと思い出しているのか?」
思考を読んだみたいに、佐伯が言った。
「・・・・・・」

「なぜ、さっき真木と名乗った。そっちが本名なのか?」
「いえ・・・なんとなく、本当の名は言わないほうがいいと思って」
「そうか」
佐伯はそれ以上の追求はせずに、
「今日はもう帰ろう。君をここへ連れてきたのは間違いだった。ヘルムートがあんなに興味を示すなんて、計算外だ。君が若すぎるからだろう」


アパートに帰ると、もう明け方だった。
「悪いがベッドはひとつしかない。少し狭いが、壁際で寝てくれるか?」
並んで寝るのか。本当に弟みたいだな。
「悪さをするなよ」
佐伯は僕の眼の上に手のひらを置いて、眼を閉じさせると、背中を向けて寝た。
全くの子ども扱いだと思う。

佐伯の背中は大きい・・・。欧米人みたいだ。
さっきも、ドイツ人の中に混じっても遜色なかった。
佐伯は、何人にも見えるし、何人にも見えない。
ドイツ語は冗談を言えるほどに流暢だ。

佐伯は、軽いというよりは、明るいのだ。
それが、結城さんとは別人のようだ。
若さ、というものは、そういうものかもしれないが・・・。
意識的に演じ分けているに違いない。

「佐伯さん」
寝ている佐伯に呼びかけた。
「貴方は、結城さんなんです。これから、ある試練があって、結城さんになるんです・・・僕はそれを見過ごさなければならない」

それが僕にできるだろうか?佐伯を見捨てることが。

「僕は未来から来たんです。22年後の未来・・・貴方は」

「貴方は僕の真っ黒な未来の、たったひとつの光だった」


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