俺がまだ有崎晃だった少年の頃、陸軍幼年学校を退学になって、英国に留学する前の晩に、養父から一冊の本を渡された。

それが、<ロビンソン・クルーソー>の英語版だった。

「これは子供向けの本なのではないですか」

「子供向けの本には、世間に隠して大人が子供に伝えたい真実が眠っていることが往々にしてある」
養父は、安楽椅子に腰を下ろしたまま、そう告げた。

「例えば、その本には<フライデー>という青年が出てくる。<ロビンソン>から見れば野蛮人の青年である彼を、<ロビンソン>は<フライデー>と名づけ、自分の従者とするのだ」

「それの、どこがおかしいのですか?」
俺が尋ねると、

「貴様が憧れて、行こうとしている英国という国は、そういう国だということだ。日本人を含めたアジアの小国の人間を見れば、野蛮人と決め付け、自分たちの世話係りくらいにしか思わん。そういうことだ。言葉さえもわからんと決め付けておる。真に傲岸不遜だ」
よほど腹に据えかねているのか、養父は実に不愉快そうに、吐き捨てるようにそう言った。
「でも、これから行く場所は、無人島ではありません」

「その通りだ。英国は、純血を気取ってはいるが、れっきとした移民の国だ。雑多な人種が交じり合っている。そして、そこに日本人について知識のある人間というのは、ほぼ皆無なのだ。なぜなら、日本など、東洋の小国に過ぎない・・・自分たちの属国だと勘違いしておるからなのだ」

「神国を・・・属領と・・・」

「ほう?貴様も少しは陸軍に染まっていたようだな。神の国などとは口走らないことだ。英国人に笑われるだけだ。学校で学んだことは全て日本に捨ててゆけ。そうして、開いた心で世界を見るのだ。そうすれば、世界の真実が見えるはずだ」

「世界の・・・真実?」

「英国に留学し、凱旋帰国したところで、陸軍の天保銭組には変人扱いされるだけだろう。貴様を生かすだけの素地が、まだこの国にはないのだ。それは幼年学校を退学になったことからも容易にわかる」

「はい・・・父上」

「だが諦めてはならん。世間には貴様のやろうとしていることがわからないだけなのだ。なぜなら、貴様は多分、世の中の仕組みを変えてしまうからだ」

養父には不思議と、俺の未来が見えているようだった。

「そんなことが、幼年学校すら追い出されたこの俺にできるでしょうか?」

「つまらない過去に拘るな。時が過ぎれば笑い話だ」

「・・・・・・」

「囚われるなよ。晃」


これが養父との最期の晩の会話だった。
そう思うと遺言めいていて、忘れることができない。

気づけば囚われている。
人の心とは、思うようにいかないものだ・・・。









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