神永、いや、伊沢和夫は、無事英国で逮捕されたらしい。
無事、逮捕されるとはおかしな表現だが、もともとの計画に沿った出来事なので、驚くには当たらない。
伊沢はこれからスパイとして英国情報部の厳しい尋問を受けることになるだろう。

「英国か」
俺は我知らず呟いていた。英国には苦い思い出がある。
まだ若くて恐れを知らなかったころに犯した幾つもの過ちのうちのひとつ。
それが、英国であった。

それは、まだ俺が有崎晃だった頃の記憶。
名前とともに捨て去った、若き日の幻。
ある女の記憶だ。

「女は殺すからだ。愛情や憎しみなど、取るに足りないもののために」
そう、小田切に訓戒したのは、ある女を思い出してのことだった。
その女と出会ったのは、今から・・・。

30数年前。
英国。
イートン校からオックスフォード大学に、俺は進学していた。
入学式後のバーティには、姉妹校の女生徒も着飾って現れ、パブリック・スクールとの違いといえば、そこに女がいる、ということだった。
貴族の子弟に群がる女たちを、どこか冷ややかな目で見ながら、俺はバルコニーに立っていた。

知人の誰かの城である、この邸宅は、王室の者さえ訪れるという由緒ある屋敷だ。
使用人だけで30人以上。没落しかけていた有崎の実家とは比べ物にならない贅沢な設備だった。
もっとも、城というだけあって、思わぬところに不便さを我慢しなければならず、豪勢に見えるその仮面の下で、台所は意外に苦しいのが見て取れる。
「内情はどこも同じか」

俺は夜風にあたりながら、シャンパンを飲んでいた。
シャンパンといっても、アルコールは入っていない。まだ20の未成年だった。

「潤一さん・・・ここにいたのね」
女の声がした。
人違いだろうと思って、返事をせずにいると、
「・・・別れるなんて、許さないわ・・・」
女は静かに歩み寄り、俺の後ろに立った。

殺気はまるでなかった。
女はいきなり俺の背中を何かで突き刺した。
持っていたグラスがバルコニーから落ちて、噴水の側で砕け散ったのが見えた。
「なん・・・だと?」

「愛しているのよ」
女は言った。

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